明日世界が終わるなら猛烈に後悔しながら死にたい

大矢根 翼

会社員時代のブログ趣味が高じてライターになり、ライターの仕事をしていたら開発が楽しくなり、気付けばギルギルタウンでいろいろやっている。
いまだに「Twitter」「RT」「ふぁぼ」と言い募る守旧派。
趣味はクルマとサバゲーとPCゲーム。

こんにちは。大矢根です。
今回は大上段に構えてから泥臭い話をしようと思います。

もしも避けがたい滅亡が明白に迫っているとしたら…

何のことはない居酒屋談義。世紀の大犯罪に走るか、愛する人と過ごすか、はたまたJust another dayとして過ごすのもかっこいいとか。

だけど僕は、世界の終わりが鼻先に迫ってもなお視線を明日に向けていたい。

「後悔のない人生」の終盤つまんなすぎ問題

「最後は笑って死にたい」とかよく言うヨと僕は思うわけです。

見出しの時点で察しの良い方は気付いていると思うのですが、「やりきった」人生のウィニングランを迎えるのってめちゃくちゃ怖くないですか?

僕たち人間はどんなにささやかでも、明日やりたいことがあるから薪を枕にして寝ることも厭わないわけです。

文化祭の準備をするとき、3日後には捨てられるとわかっている段ボールを貼り合わせる時間に胸が躍ったのは、バリッとちぎるガムテープの一切れごとに文化祭の本番が近づいているからです。

お祭りが終わって、クラスメイトとファミレスで打ち上げした帰り道、突如やってくるあの虚しさ。あれ、なんだろうね。あれ、ヤバくね?胸、痛くね?

文化祭が終わっても人生は続いていきますし、(今の日本がどうかは置いといて)明日は今日より良い日になるという希望を持てるから、僕たちは文化祭が終わったあの夜、家の布団に滑り込めたと思うんです。

ちなみに文化祭の実行委員長をやっていた僕は、文化祭が終わって迎える「今日より良い明日」にはきっと人生初の彼女ができて、志望校に受かって、テニスサークルにでも入るもんだと思っていました。

ふたを開けたら文化祭の打ち上げで友達からドンキの袋に入ったTENGA EGGをもらい、使用感を書いたら10年以上にわたってAmazonのトップレビューに君臨するという嬉しくなさすぎる記録だけが残りました。

でもそれでいいんです。

順風満帆で世界の果てにたどり着いてしまったら、僕たちは何のために食べ、何の夢を見ながら眠ればいいのかわからなくなってしまう。

だから「やりきった」人生がたどり着く場所は桃源郷のようで、方位磁石が道を示してくれない樹海の真ん中だと思うんです。

「やりきった」人生の最終フェーズ。そこは咲き乱れる花の中でゆっくりと近づく死を待つ、檻のない監獄のように思えてなりません。

後悔するための必殺技「ガキになる」

緩慢に迫る最期を迎えないために、僕は8歳ぐらいのクソガキを心に飼い続けようと思います。

僕が8歳の頃って友達の家で64のスマブラをするか、「大公園」で自転車レースをするのが世界のすべてだったようなぼんやりした記憶があります。

「8歳児を飼いならせると思うなよ」というご指摘はその通り。
制御不能なリビドーに突き動かされる日々のうちに終わりを迎えられたら、人生を通して得られた幸福の総和は最大になると思います。

だって8歳のときに「明日世界は終わります」って言われたら

「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ」

しか言えないですからね。

子どもの頃って将来何が起きるかなんて全然わからないのに、時間が自分を大人にしてくれて、そのとき自分は今よりもすげえ何かになっているという漠然とした確信がありました。

それはとっても幸せなことではないでしょうか?絶望や諦念ではなく、根拠のない希望だけを心に注ぎ続けるんですから。

だから明日が来ないなんて考えもしなかったし、そんな未来を受け入れる余白なんて心のどこにもなかったと思います。
子どもの心の器は新しいことを知るためにぜーんぶ予約されているんですから。

いろいろな経験や学習をした大人は、過去から未来を積分できるから、将来の輪郭が子ども時代よりも少しだけ鮮明な気がします。
それでもわからないことだらけ、見たい景色だらけだから今日も生きる気力が湧いてくるんです。

「俺の人生こんなもんか」と思ったら自分に問い直してやるんです。

「まだ死んでもいないのに人生を、世界を知り尽くしたつもりか?」って。

死にそうになったら最後の瞬間まであがいてやるんです。

「俺はまだマチュピチュにも行ってない!」って。