推すな、引け、刻め、そして喰らえ

大矢根 翼

会社員時代のブログ趣味が高じてライターになり、ライターの仕事をしていたら開発が楽しくなり、気付けばギルギルタウンでいろいろやっている。
いまだに「Twitter」「RT」「ふぁぼ」と言い募る守旧派。
趣味はクルマとサバゲーとPCゲーム。

こんにちは。大矢根です。

もう止めようぜ。「推し活」

推し活からの収奪は営業の外道

ギルギルタウンの業務にはブランディングというマーケティング関連の領域があります。
簡単に言えば、自社商材を求めている見込み顧客に届け、魅力を伝えて購買行動を誘発する業務全体がマーケティングです。

仕事の一環で僕もマーケターと呼ばれる方々に会ったり、そういうイベントに参加したりすることがあります。
そして、最近よく「いかにして”推し活”の中に自社商材を潜り込ませるか」という議論が交わされている様子を耳にします。

まあ簡単に言えば「”推し活”をしている人は財布のひもがガバガバだから効率よくお金を引っ張ろうね」って話です。
でも、僕はこれってマーケティングの本筋からズレていると思えてならないんですよね。

世のため人のためになる商材を、適正な利益を出しながら持続的に市場に供給していく手段がマーケティングだと、僕は思っています。
「推しに認知されたい」とか「誰よりも消費額が多い様を見せたい」という歪んだ自己顕示欲が生み出す、ある種自暴自棄な消費に付け込むマーケテイングは、市場の持続可能性を破壊する搾取行為に思えてなりません。

「推し活」という言葉が指す消費行動は、消費者自身が行動をコントロールできないという特性を持っています。
「推し」が右と言えば右、左と言えば左に奔走し、グッズを買い揃えてSNSにアップ。
この動きは「好きでやっている」というよりも、「そうしなければファンとしての自我を保てない」という強迫観念に突き動かされているように見えます。

「推し」を持っている人に憑りついて必要以上のお金を巻き上げれば、その人はどこかで社会生活を正常に機能させる消費行動を制限されます。

推し活をしている人に高額商材を売りつけ、「その人のライフラインが止まっても知らん顔」みたいな態度は、倫理感ある企業人が取るべき態度ではないと思います。

推し活と生活

「活」という文字の訓読みは「活かす」などの「い」。
その意味は「何かを生き生きと動かすための原動力」と言えるでしょう。

「生活」は人「生」そのものを活力あるものにする活動全体を指します。
「営業活動」は生業を営む活動です。

ひるがえって推し活は「推し」を活かす行為であり、自分という生活の主体が道具として消費される活動です。
ここで立ち止まりたいんです。

「推し」って、自分の生活を豊かにしてくれる存在ではないんですか?
自分を犠牲にしてまで華美に飾りたいものなんですか?

好きなアイドルを追いかけるのは結構。
ゲームの配信に熱中するのも結構。

でも、その情動の中心にはいつでも自分がいてほしいんです。
「推し活」をしなければ自我が保てないというならば、その人に必要なものは推し活の手段やコンテンツではなく、人生の軸でしょう。

僕は「推し活」が与えてくれる幸福はかりそめの浮遊感だと考えています。
それはニコチンが切れたときの一服と同じで、不安定になった心を正常と感じるラインに引き戻しているにすぎません。

好きなアーティストやアイドルなどのライブ翌日には、ほのかな喪失感と一緒に充実感とみなぎる活力を覚えるはずです。
その状態は自分が中心にいて、好きな人やモノが人生を彩ってくれているとみなせるでしょう。

引け、刻め、そして喰らえ

だから僕は「推すな」と言いたい。

自己犠牲を伴う金銭の供出を「推し活」と呼んで美化する必要はありません。

人間は素晴らしいコンテンツを自分の人生に引き込み、心に刻んで、明日を生きる糧にできます。

お金を消費することだけが「好き」を表す方法ではありません。

「好き」という想いで駆けまわり、かき集めた記憶や物品と愛情を介して触れ合うと、僕たちの心には新たな感情が生まれます。
きっとその感情こそがクリエイティビティと呼ばれるもので、自分中心の世界を前に進めながら広げていく原動力になるんだと思います。

あなたが推さなくても世界は回っていくし、好きなアイドルは逃げません。
そりゃあ解散前に好きなアーティストのライブには行っておいた方がいいですよ。
唐突に無期限活動休止したMOROHAガチ勢の僕が言うんだからこれはマジです。

ともかく自分の人生をコントロールできるのは自分だけ。
「推し活」に人生を振り回されず、好きなものを追いかけて、取り込んで、昨日より面白い明日を自分の世界の中で作り上げてやろうじゃありませんか。