こんにちは。
ラジオのワンコーナー感覚で読めるブログを心がけている大矢根です。
ネガティブなことよりもポジティブなことを言いたい。
怒るよりも笑っていたい。
誰だって同じ感情を持っているはずなのに、世の中は憎悪と差別で溢れかえっています。
なぜ僕らは「嫌い」と言ってしまうのか
人間は表現する生き物で、表現によって人とつながったり離れたりします。
僕が僕であるという証明は、僕がする、僕だけの表現によってのみ達成されます。
ともすれば、何か言わなければいけない、何かしなければいけないと思いますよね。
そんなとき、「嫌い」という表現はとっても甘美な誘惑になるんです。
「ピーマンは嫌い」「あの人は嫌い」「自分の顔が嫌い」
何かを嫌うとき、嫌う対象はいつも心の外側にあります。
そして、「嫌い」を通して人はそれなりに一体感を持つことができます。
心の外側にあるものを表現することで自分の立ち位置を作れる「嫌い」は、自分の心を人前にさらけ出す「好き」よりも自分の心を隠しながらできる表現です。
いくら叩いても痛くないから「嫌い」の表現はいくらでも過激にできるし、むしろ過激な方が目立って仲間を作りやすかったりします。
恋愛で告白するより、誰かの悪口を言う方が簡単ですよね。
そして往々にして悪口や影口はエスカレートしていくものです。
「好き」と言うのは怖い。とても怖い
他人の趣味に口を出して良いか否かは別として、人は他人が好きなものを聞いたら何かしらの印象を持ちますよね。
「あーヘビメタ好きなんだ~(黒くて読めないフォントのバンド群ね)」みたいな。
つまり、人前で「好き」を表明するということは、本心の一部を人の前にさらし、その評価も相手に委ねるということです。
これってめちゃくちゃ怖くないですか?
心の中にとどめておけば誰にも侵されない自分の神聖な感情が、人前にさらけ出した瞬間に土足で踏みにじられるかもしれません。
加えて人の趣味をクソミソに言いながら「ダメとは一言も言ってないじゃん」とか居直るクソ野郎もいるもんだからタチが悪いですよね。
大好きなものはそっと心の中にしまい込んで、ひとりになったときに取り出してそっと眺める程度にしておこう。
そう思う人が多くても何にも不思議ではありません。
「嫌い」には強く表明するインセンティブが働くのに、「好き」には控えめに表明するインセンティブが働いています。
だから社会の憎悪を愛情で包み込んでいくためには凄まじいエネルギーが必要でしょう。
それでも好きなもんは好きだ
一緒にいる人が好きなものを教えてくれたとき、僕は心の距離が縮まった感じを覚えてけっこう嬉しくなります。
「ここのチャーシューメン好きなんだ」
「あの企業のCMが好きでつい見ちゃう」
自分の心をさらす、少しばかりのエネルギーを僕に割いてくれたことが嬉しくなるんです。
陰口ばっかり言ってる人より、美味しかったお店を教えてくれる人の方がシンプルに有益だし。
類は友を呼ぶというので、僕も好きなことはガンガン発信していく構えです。
それで、自分が好きなものを嫌いだと言われたら、「おっ、自分のココロ守ってんね~」と思うことにしました。
仕事も例外ではなく、好きなものを好きと言える人と付き合うことにしました。
それが「上手くいった」と胸を張れるほど成功しているとは言い難いのですが、人の「好き」を知るともっと自分がやりたいことを表明したくなりますし、人のチャレンジを応援したくなります。
よくチャレンジを奨励する会社がありますよね。
チャレンジは奨励されてできるものではなく、仲間が自己開示してくれるからできるものなんじゃないかと思います。



